五逆罪と御心


今日はお坊さんに質問しました


「五逆罪」について聞きたかったのです。


親殺し、仏教の話を聞かぬもの、助けを請い求めるものを邪魔するもの、集いの場を穢すこと、、


仏教では、五逆罪だけは仏の救いの範疇から外れます


お坊さんは言いました。


「わたしの心の中を見てみますと、わたしは心の中で親を殺したんですね、、」



わたしは言いました。



「はい、わたしも心の中で親を殺しました」



お坊さんは、


「人というのはその心を持っています。


だからそんなわたしのためにすでにお話を聞きなさいとの救いの手が差し伸べられていた


それが仏教です。」




わたしは自分が殺されそうになれば、自分に愛着があるものを失い奪われそうになれば、その人をも殺めることをするのだと、そんなわたしを見てしまったのです。


わたしは人間という動物であり、植物も動物も殺すのです。


それから、わたし自身も死に向かって殺されていく諸行無常の存在なのです。


社会の中で生きていると、動物に喰われることもないから、自分もそんな生き物だとわからなくなるんです。


今日は樹齢200年のイチョウの木が台風で一部裂けて折れてしまった話を聞ききました。


その傷口のイメージを感じるだけで痛々しかったです。


心が痛みました。



失うことに痛みを感じる。



人の命が失われることに痛みを感じる。



死に直面することはやはり怖い。



子供が危ない場所にいれば、叫びながらその場所から連れ出そうとする。



助けてほしくて叫んでいてもそこから引っ張りあげてくれないなら、危ないと叱ってくれないなら、危機感を察知して怒って行動に移してくれないなら、そこに親心はないのだ。



弥陀さんが、五逆の罪を例外とするのは、それは叱責であり、それは親心そのものなんだとわたしは解釈した。



わたしは助けてほしくて恐怖で叫ぶのだ。



そんなわたし泣き叫ぶわたしを咄嗟に抱きしめてくれて、手をひっぱりあげて、危ない!!と反応してくれる人がいなければ、わたしは死ぬまで親となってくれる人を探し続けるのだろう。



死ぬまで親心をもってわたしを叱ってくれる人を探すだろう。



子供は危ないときに助けられて、人をも助ける親心を育んでいくのだ。



わたしはちゃんと他人に怒れずにいた。


人に怒っていいのだ。危ないときはちゃんと注意してあげるのが、親心というもななのだな。


わたしは今日知ったのだ。



人への適切な叱責の仕方を学べなかったのだ。



叱責は、抱きしめることであり、待つことであり、危険から身を守ることであり、深い思慮という愛がなければできない。



プールの監視員みないなもんか。



危険への反応能力を身につけるには、周りの人が今どの道を歩いているのかを見れる必要がある。



自分の経験しかない。



自分が歩いた分だけしか世界は見えない。


だから人は境界線の記録を更新していく。


だから今どこまで進んでいようが、他人と比べる必要もなく先を急ぐ必要はない。



自分の境界線を広げていくのは、限りなくそのままでそこに留まり続けること。



そしてみんながそのままでいいのかと自分を受け入れられる集える場所をつくること。



危険意識が100パーセント正常に働く自分の安全で帰れるパワースポットな居場所が必要なのだ。



自分がパワースポットであれる居場所を自分の中に何度も繰り返しこしらえていく必要がある。


深い親心をこしらえていく。











今日はお坊さんに質問しました


「五逆罪」について聞きたかったのです。


親殺し、仏教の話を聞かぬもの、助けを請い求めるものを邪魔するもの、集いの場を穢すこと、、


仏教では、五逆罪だけは仏の救いの範疇から外れます


お坊さんは言いました。


「わたしの心の中を見てみますと、わたしは心の中で親を殺したんですね、、」



わたしは言いました。



「はい、わたしも心の中で親を殺しました」



お坊さんは、


「人というのはその心を持っています。


だからそんなわたしのためにすでにお話を聞きなさいとの救いの手が差し伸べられていた


それが仏教です。」




わたしは自分が殺されそうになれば、自分に愛着があるものを失い奪われそうになれば、その人をも殺めることをするのだと、そんなわたしを見てしまったのです。


わたしは人間という動物であり、植物も動物も殺すのです。


それから、わたし自身も死に向かって殺されていく諸行無常の存在なのです。


社会の中で生きていると、動物に喰われることもないから、自分もそんな生き物だとわからなくなるんです。


今日は樹齢200年のイチョウの木が台風で一部裂けて折れてしまった話を聞ききました。


その傷口のイメージを感じるだけで痛々しかったです。


心が痛みました。



失うことに痛みを感じる。



人の命が失われることに痛みを感じる。



死に直面することはやはり怖い。



子供が危ない場所にいれば、叫びながらその場所から連れ出そうとする。



助けてほしくて叫んでいてもそこから引っ張りあげてくれないなら、危ないと叱ってくれないなら、危機感を察知して怒って行動に移してくれないなら、そこに親心はないのだ。



弥陀さんが、五逆の罪を例外とするのは、それは叱責であり、それは親心そのものなんだとわたしは解釈した。



わたしは助けてほしくて恐怖で叫ぶのだ。



そんなわたし泣き叫ぶわたしを咄嗟に抱きしめてくれて、手をひっぱりあげて、危ない!!と反応してくれる人がいなければ、わたしは死ぬまで親となってくれる人を探し続けるのだろう。



死ぬまで親心をもってわたしを叱ってくれる人を探すだろう。



子供は危ないときに助けられて、人をも助ける親心を育んでいくのだ。



わたしはちゃんと他人に怒れずにいた。


人に怒っていいのだ。危ないときはちゃんと注意してあげるのが、親心というもななのだな。


わたしは今日知ったのだ。



人への適切な叱責の仕方を学べなかったのだ。



叱責は、抱きしめることであり、待つことであり、危険から身を守ることであり、深い思慮という愛がなければできない。



プールの監視員みないなもんか。



危険への反応能力を身につけるには、周りの人が今どの道を歩いているのかを見れる必要がある。



自分の経験しかない。



自分が歩いた分だけしか世界は見えない。


だから人は境界線の記録を更新していく。


だから今どこまで進んでいようが、他人と比べる必要もなく先を急ぐ必要はない。



自分の境界線を広げていくのは、限りなくそのままでそこに留まり続けること。



そしてみんながそのままでいいのかと自分を受け入れられる集える場所をつくること。



危険意識が100パーセント正常に働く自分の安全で帰れるパワースポットな居場所が必要なのだ。



自分がパワースポットであれる居場所を自分の中に何度も繰り返しこしらえていく必要がある。


深い親心をこしらえていく。